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86世代として日々想い、走る日々。

文脈がワカラナイことについて批判するべきか

はてなブックマークのコメントについては100字という制限があるため、文脈などをうまく補足できずに、短文で記載されるということがあります。これ自体はなぜ100字ナノカなどは時代に合わせて検討すべきだと思うのですが、今回は別の話。

 

人が何かを表明するときはその背景に文脈があることが多いように思います。その文脈については「世の中」「コミュニティ」「リアルなネットワーク」「個人」の4つくらいに大別できると思っています。どう言う観点かというと、特定の文脈でしか理解できないことという観点です。

なので、自分自身からするとどういうことかよくワカラナイなってコメントや記事については、どういうひとがどういう文脈でブックマークしたのかがわかると理解が進むのかなと考え始めています。実名か匿名かというのは、ソーシャルネットワークサービスの議論の中で1つ重要なアジェンダだったように思います。でも、本当に重要なのは、実名か匿名かではなくて、「文脈」が理解できるかどうかということなのかなと。

 

そいで、文脈が理解し難い状態で、衆目を集めるようにすると「意味がよくわからない」ということが起こり、結果として摩擦が起きるということがあります。これはコミュニティの中で起きることだけではなくて、昔から外交などでも議論になっていますよね。その結果として、グローバリゼーションというものでフラット化する世界、みたいな議論が10−20年位前に生まれて、違いをどこまで均等化できるか、文脈の相互理解をどれだけコスト減らせるかみたいな観点が生まれたように思います。

でも、完全に均質な世界、お互いの文脈を正しく理解できる世界というのは現実的になり得ないと思っているので、文脈をワカラナイことに対して批判的な態度を取るのは不適切なのかなと感じることもあります。もしかしたら、今は自分が理解できていないだけで、いつか面白いことと考えられるかもしれないからです。

はてなブックマークは、あくまでも個人が始めに来るサービスです。ヤフートピックスのように世の中の期待を元に組成されているサービスでもなく、雑誌のようなコミュニティでも、バイラルメディアのようにリアルなネットワークを軸にしたサービスでもありません。なので、個人の考えや思いが出てくる以上、どうしたって文脈が正当に評価されないことがあります。それ自体はもう許容する、逆に文化の衝突として受け入れる。楽しむ、面白がる。そういう姿勢が重要なのではないかと個人的に感じています。個人の痛烈な意見が共感を呼び、保育園落ちたのような世の中のことに昇華されていくことがあります。個人を基点にするサービスだからこそです。なので、目の前の文脈が自分は理解できなかった時に、それを自分なりに理解したり、面白がったり、興味を持つ姿勢を維持していきたいと思っています。

 

でも、そもそも文脈の違いなのか、本当に意味がわからないのかが判断しにくいので困っているというケースもあろうかと思います。そういう時のために機能的なサポートが出来ないのか、そこをかんがえていきたいと思っています。

 

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