面白いコメントの暴力性に僕らはどう立ち向かべきか
とある匿名の記事を呼んでいた時に、非常に面白いのだけど、少し感じるザワツイた気持ちなんなのか、この感情の背景はなにかというのを探ろうとしていました。
この記事です。そいで、この感情をうまく表現できないな、うまく表現してくれているコメントはないかなと思って、コメントをチェックしようとします。
入籍前夜
まーたトラバで噴いて台無し案件だよ / “やーいお前の結婚記念日セブンイレブンwwwwwwwwwww” 呪いやろこんなん
2016/07/11 16:47
人気コメントにこれがでていて、もうその感情を理解する作業から、セブンイレブンてという気持ちに引っ張られてしまいました。思考もそこでとまって、というか方向転換して、セブンイレブンの日は嫌なのかな?覚えやすいよねとか全く違う方向に行ってしまいました。
こういった形で、非常に面白いコメントは暴力性があるなと感じることが有ります。あまりに面白いコメントに出会った時は、笑うといったこともありますし、誰かに共有したいという次の行動を考えたり、またそれについて考え始めるということがあります。コメントはあくまでも順番として、記事の出会ったあとに出会うものだと思うので、面白いコメントは、記事への思考を止めるという意味で暴力的な威力を発揮することがあるということだと思っています。
これ自体は全く問題ないことなのですが、これはコメントにかぎらず今の日本のニュース記事などにおける改善余地があることの1つのように思います。ニュース記事などには多くの場合、関連記事やコメントへの導線が有りますよね。それらを見に行くことで自分自身の思考を止めることがあります。本当は、思考したいのだけどどうしても次の記事に行きたい、そういう衝動を止めることができれば、もっともっと深く記事を読み込むことが出来るかもしれないと考えることが有ります。
勿論、サービスを開発する以上回遊性は重要ですし、すべての記事に思考する必要性もないと思っています。なので、重要なのは重要な記事をどこかに置いておいて、それを取り出すくしておき、再度思考しやすくすることかもしれないなと感じています。そして、それがオンラインブックマークに期待されることの1つかもとも。まだここについては自分自身の考えをまとめ始めたタイミングで浅薄なアイディアしかないのですが、深く考えてみたいなと思っています。
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